煙草と映画のはなし

なんの話かと言うと、映画『[窓] MADO』の感想文です。

この映画は、麻王監督の父親が被告とされた「横浜副流煙裁判」の事実を元にしたフィクションで、ロンドンやパリの映画祭で受賞し、この5月には横浜国際映画祭にも招待されました。
ただ実は僕は、公開前の試写会で観たきりで、本上映を観ていません。京都での上映をお待ちしておりますな状況で、もしかしたら皆さんが観た『[窓] MADO』とは違ったりするかもしれないのですが、ご容赦願いたいところです。
あと、ネタバレ注意です

映画 [窓]MADO 公式サイト
西村 まさ彦 主演、映画『 MADO』。 監督は麻王、長編初監督作はセンシティブな社会問題にシリアスタッチで挑む意欲作! 実際の裁判である「横浜・副流煙裁判」をもとに、化学物質過敏症が引き起こす問題をテーマにした映画です。

まずはちょっと勿体ぶって、別の作品、ていうか歌を。
ムーンライダーズの鈴木慶一が作曲した『スカンピン』というのがあります。
ここにタバコが出て来ます。

サァ、煙草に火を点けて何処へ、何処へゆこう、
サァ、煙草の煙をくゆらせて、何処へ、何処へゆこう

この曲の主人公は、貧乏なのですね。素寒貧ですからね。
俺達はルンペンで、ブルーカラーだと言ってます。
ルンペンは乞食でホームレスでブルーカラーは肉体労働者なので、どっちかなと思いますが要するに定職には就いてない、寄る辺ない存在だということになります。
こういう寄るべなさにこそ、タバコがよく似合う。

そしてこの曲の主人公は「明日はジゴロかペテン師か」という、たあい無くもバカバカしいような、はかない夢のような将来の展望を語ってもいる。
そういう不遇や失意、傷心の慰めというところに、煙草というのはぴったり合う小道具なわけです。

煙草はいつもそんな風に、歌に書かれ、映画に登場して来ました。
傷心の慰めとなり、またその慰め自体がどっかやさぐれた感じ。いっとき慰みを得られても、結局のとこ望みは叶わないだろうという諦めまで感じさせます。
映画で言うなら、セリフがなくてもそういう心情を表してくれる便利なものなんですね。

この感想文は、そういう話です。
映画のなかで、タバコ=喫煙がどういう意味をもつのか、ということです。

さて映画と煙草、で言うなら、もういっこ重要な役割がありますね。
悪役のアイコン」としてです。

映画に出てくるマフィアのボスは、登場したらまず葉巻に火をつけて、ぷはぁと紫煙を吐き出します。これでもうこのボスは仁義あるヤクザではなくて、悪い奴なんだなってことが分かります。

本来正しい人間のはずの政治家だって同じです。登場してまず葉巻を吸ったら、絶対悪役です。というか映画が作ってきた社会のイメージが、「葉巻を吸った、なら悪役だ」と観客に分からせてくれるのです。

例えば、貧民街でなんか連続して事件が起きました。理不尽としか思えない犠牲者が出て、なのに犯人が分からない。
「一体どこのどいつがこんなことをしやがる、俺たちがいったいなにをしたって言うんだ?」
ここで場面が変わって、大物政治家の執務室。葉巻に火をつけて、ぷはぁ、とやる。ならばこの政治家が黒幕なのに決まってます。

はっきり言って偏見なんですがそこがイメージの蓄積というもので、これがあるから僕たちは滞りなく映画やドラマを観ることができるのです。

映画『[窓] MADO』でも、このイメージの歴史的蓄積が生きています。

主人公である江井英夫が裁判に訴えた、被告とされた備井美井夫がタバコを吸うシーンです。

主人公は、家族(特に娘)が、同じ団地に住む美井夫の喫煙により健康を害されたとして彼に禁煙をお願いし、果ては民事裁判に訴えることになる。
その美井夫の喫煙シーンがあるのです。
ぶはぁっ、て感じで大量の煙が吐き出されます。

ああ悪役なんだな、と観てる方は思う。

そこが映像のテクニックで、この「ぶはぁっ」な喫煙シーンは、主人公=江井英夫が想像(妄想)した、架空の喫煙です。同じ構図のシーンで美井夫だけじゃなく備井家の3人が揃って、主人公を嘲笑するように笑っているので分かります。

それだけじゃなく、葉巻でもあるまいし煙が多過ぎるんじゃないか、という点でも想像上のシーンだと分かる。
そして映画は丁寧にも、ラストで現実に美井夫が喫煙しているシーンも映します。
そこではタバコの煙はスクリーンで見えるか見えないかくらいに、か細く漂っている。
これで先のシーンでのタバコ煙の「ぶはぁっ」は、主人公のタバコへの恐怖や敵愾心の現れだということが種明かし的に分かるようになってるのです。

こういうところ、さすがCMをつくってる人なんだな、と思わせます(麻王監督はボートレースのCM他、沢山のCFを手がけてる人です)。記号としてのイメージ(煙草=悪とか)を利用して、そこからイメージを膨らませ、時に元のイメージを裏切るように描いてるのです。

イメージの膨らみや裏切りについての例を挙げると、江井家の就寝シーンがあります。

観るとビックリすると言うか「あれ?」と思うのですが、主人公の江井家では、ベッドに親子(夫婦+娘)が並んで寝るのです。
「なんかこの人たちちょっと気持ち悪くないか?」そうは思うけれども、そうとも言いにくい(例えば友人とも言えない知人くらいの関係にある大人から「お父さんお母さんと一緒に寝てる」と言われたら、率直に「気持ち悪い」とは言いにくいでしょう)、微妙なシーンです。これが映画のどんでん返しの心理的な伏線になっています。

こういう伏線は映画のなかでいろいろ使われてるのですが、このシーンが僕にとって印象的なのは、元ネタを知っていたからです。
元ネタは監督が、それを読んで「家族の愛というものを感じた」と語った、現実の江井英夫が書いた日記に出てきます。

現実の江井英夫(現実のジャーナリズムでは主に「A夫」と表記されています。その家族は「A家」)が書いた日記は、証拠資料として裁判に提出されています。そこにA家がタバコ煙からの避難として、数日間ホテルに宿泊した時の記述がある。
このとき家族3人で、川の字になって寝たと書かれていました。これが件のシーンの元ネタだろうと考えられます。

これ素直に見れば、心温まる情景でもあります。

同じ団地の住人から苛まれる(事実はともあれ、そう信じている)辛い境遇のなか、命からがら辿り着いた避難先で、親子の愛情を確認できたひとときの出来事だと受け取ることも出来る。
けれど僕は性格が悪いので、日記のこの件りを読んで口には出せないけれど気持ち悪い、と感じました(口に出さなくても、書いてるじゃん)。親子ともに立派な大人なのに(現実には当時70代の親と40代の娘です)一緒に並んで寝ることと、それを日記に記すことがです。監督だってこの事実を使って心温まるシーンを演出することは可能だった筈ですが、映画ではちょっと違うシーンとして描かれている。

言っておきますが、映画でこの江井家の就寝シーンが「気持ち悪いもの」だと、殊更に演出されている訳ではありません。この映画はそういう下品な演出を許さないところがあります。
このシーンを気持ち悪いと感じるのは、あくまで僕=煙福亭の主観です。そんでもってそう感じながら見ることこそ「映画を観る」ってことでもあります。

さらに言えば、僕が自分を「性格が悪い」と言ったのは韜晦であって、本当は僕の考えでは人生観の問題です。僕としては、家族の間柄は「淡きこと水の如し」であって欲しいよなぁ、という考えがある訳です。自分はそうありたい、それがまあつまり人生観なわけです。
だから僕とは違う人が見れば別の感想があり得る。「辛いなか身を寄せ合って生きているんだね」と江井家に同情的な見方だって当然あっていい訳で、そのような解釈の自由を許すように、この映画は演出されています。

つまりこの「①イメージ→②動機(メッセージ)→③疑惑→④考察」が、この映画の方法なんだと思います。

①は普通、映画では「事件」として提示されます。ただこの映画ではこれまで指摘したようにイメージが喚起するものが重要と思うので、①を「イメージ」としておきたいのですね。

冒頭、江井家の娘=英美が最初に苦しみ出すシーン。団地の窓を開け、爽やかな朝の空気を吸い込むように見えた英美が、突如として発作を起こす。
分かりやすい。見えない何かが彼女を蝕んでいるのです。また彼女はそれ以前には幸せに暮らしていたことが示されます。

ここで現れるのが、②動機(メッセージ)です。
「彼女の幸せを、取り戻してあげたい。彼女の不幸の原因を探り、取り除かなくてはならない」
観るものに代わってそれを実行するから、英夫は主人公となるのです。そして「原因」はタバコであることが提示されて、悪役はすなわち美井夫となる。

こうしてフィクション=物語として、映画が進む準備ができました。

江井家は窓を閉ざす。主人公は娘を助けようと、美井夫に抗議し、裁判に訴える。部屋に何台も空気清浄機を置きます。赤いランプが危機を伝えます。体に良いのか有害物質を吸収してくれるのか、観葉植物が所狭しと並べられます。体に良いらしい不味そうな鍋を食べる。おそらくは団地内の別の一室で、夫婦は熱心に祈りを捧げます。

…なんか、変じゃないか? 主人公一家、ちょっとおかしいんじゃないのか?
僕にとってはその最たる場面が上の就寝シーンでしたが、映画的には主人公がゴミ置き場を漁り、美井夫の吸い殻を見つけた時の恍惚としたような、不可思議な表情が最上ですね。
これが③疑惑です。

で、ここまでは言ってみれば、普通の映画(フィクション、物語)の展開な訳です。③疑惑はあってもなくても良いのですが、サスペンス効果を与えてくれる③疑惑がないような素直な作品というのは、今じゃ珍しい部類でしょう。

ただその先は違う。この映画が純然たるフィクションであってエンターテインメントであれば、④に来るのは「解決→解放」です。けれどこの映画にはそれがない。
不思議なことではないのです。現実には解決とか解放なんてものは、起こらないことが普通です。だけどそれがあって欲しいと願う、それがフィクションとしての映画であって、僕らが映画にそれを望むのは、映画が歴史的にそうあって来たからですね。

※このあと特に、ネタバレ注意です


このように『[窓] MADO』という映画は、現実にあった事件を元にしてはいますが、フィクションです。現実にA家族が普段、一緒に寝ている訳ではない。というかそんなことは分かりません。そのフィクションたる最大のシーンが、映画で最も衝撃的であろう、江井英夫の喫煙シーンです。

この映画の、謂わば「どんでん返し」となる場面です。

映画終盤、美井夫を訴えた民事裁判が江井家の敗訴となったことを知らされた失意の英夫が、街を彷徨い歩いたあげくに、人気のない場所でタバコに火をつけ、泣きながら、家族に謝りながら、タバコを吸うのです。

美井夫に禁煙を迫り、そのために裁判まで起こした主人公=江井英夫が、家族から隠れて人気のない場所で喫煙している。
このちょっと前には、相変わらず娘がタバコ煙に苦しめられている様子を見て、これだけ訴えても喫煙を止めない美井夫に対し「人間ではない」と日記に書き綴っていた主人公が、よりにもよって娘を苦しめているその行為、「人間ではない」悪徳だと怒りに震えていたその行為=喫煙をするのです。

何故?

けれどこれが他の映画であったら、まったく不可解なシーンではありません。

喫煙は映画では、というかフィクションでは、歴史ある失意のアイコンだからです。
傷心と不遇の慰めをタバコに求める成人男性、伝統的に当然そうであるべき映画上の演出なのです。

ただしこの映画では、そうはならない。

主人公に同情的に観てきた観客は、彼の喫煙を非難し失望するでしょう。
主人公に懐疑的に観てきた観客は、「そら見たことか、偽善者め」と思うかも知れない。

けれどちょっと引いて見れば、主人公を非難する僕ら観客の心が狭いことに気付かされます。

「失意の慰めをタバコに求めることすら許されないのか」ということです。

けれどこの映画において、
それを許さなかったのは、自宅での喫煙すら許さず、裁判を使ってまで断罪しようとしたのは、他ならぬこの主人公=江井英夫だったのです。

現実に目を移してみれば、「失意の慰めをタバコに求めることすら許されない」のは、正に今現在の日本で、世界中で、そうなるように法が組まれている、今現在の状況でもあります。
日本のことで言えば健康増進法が「望まない受動喫煙が生じないよう〜努めなければならない(第二十五条)」と規定していて、これはW H Oの意向を汲んだ結果でもあります。公共の施設内も禁煙です。飲食店でも基本的には禁煙となるよう定められている。さらに各自治体の条例が、多くの屋外地域での禁煙を命じている。もしかしたら英夫が喫煙していた場所も、本来なら禁煙の場所だったかも知れません。
そして付け加えれば、自宅での禁煙を命じるために民事裁判が起こされたことも、自宅や私有地での禁煙を命じる条例が草案されたことも、紛れもなく現実にあったことなのです。(註1)

何故この場面で、英夫はタバコを吸ったのか。

現実のA夫はここでタバコを吸わなかったでしょう。仮に吸っていたとしても、その事実は躍起になって否定していたはずです。

何故吸ったのか?

一番簡単な答えは、「これが映画だから」です。映画というものは、こういう場面で大人の男というのは(或いは女も)、タバコを吸うものなのです。

英夫がここでタバコを吸ったのは、現実にこうであったからではなく、監督がこうだったろうと思ったからではなく、英夫がここでタバコを吸うことが、謂わば「映画史的に要請されていた」からです。
だけどこの映画でだけは、この映画のこのタイミングでだけは、主人公はタバコを吸ってはいけなかったのです。

このアイロニーが、英夫の喫煙シーンをこの映画のクライマックスにしています。

映画内だけでみても、親子で並んで寝るほど仲の良い家族なのに、娘の力になれなかった父親として、隠れてタバコを吸うしかない無力な主人公の寄るべなさが、「喫煙」というこの映画においては最悪の行為によって、とても効果的に表されているのです。

裁判における全面敗訴から、英夫の喫煙というクライマックス。
その後に続くのは、備井家の妻=美井子の嘆きです。

「江井家の訴えは事実とは違う。根拠がない。夫の喫煙は少量で、わたしは吸ってない。なのに誰も本当のことを、我が家の実際の姿を、見ようともしない」

裁判に勝ってなお、美井子は嘆いている。
江井家だけでなく備井家にとってさえ、解決も解放もなかったのです。

もし仮に、この場面が判決を読み上げるシーンであって、備井家が歓喜に包まれる場面がこれに替わっていたら、フィクションとしては成り立ちます。逆転ハッピーエンドです。

けれど現実には当たり前に、備井家にとってもハッピーエンドじゃないのです。

悪役を押し付けられ、裁判に疲弊し、勝てはしたけれど、それで江井家が改心?して、隣人の恨みから解放された訳でもない。

ただこのシーンにも、逆転という意味はあります。
美井子のキャラクターです。

冒頭近く、江井家と備井家が話し合う、というか直接対決する場面があります。

ここで強い態度で江井家=主人公サイドと対立したのは、実は美井夫ではなく美井子の方でした。
主人公に感情移入する観客としては、悪役の理不尽を体現するのは、美井夫じゃなく美井子です。
公害映画を想定すれば、被害者の訴えを鼻であしらう悪徳企業の社長みたいな立ち位置です。
ここでもやっぱり、蓄積されたイメージ=記号的な悪役の配置が意識されていたことが分かります。

その後主人公の視線からは、愉快げに談笑する美井子が見えます。自分たちはこれほど苦しめられているのに…という視点を、観客は主人公と共有する。
けれど映画の後半に差し掛かる頃には、主人公の視線からは外れて、憔悴した白髪混じりの美井子をカメラが捉える。そして嘆きのシーンになると、美井子の髪はほとんど白く染まってしまっています。

最初の対決シーンと同じように、美井子は怒りを露わにする。けれどあのどんでん返しを受けた観客には、その怒りを理不尽な悪役のものとは受け取れない。
これまで明らかにされていなかった「備井家サイドの真実」という逆転があるのです。

実に救いのない話とも言えます。

英夫の喫煙シーンはクライマックスを形作っていたのに、なにも解決していないし、誰も解放されてない。

主人公は戦った、でも敗れた、というのであれば、一応は悲劇として成り立ちます。
だけど主人公が戦ったことこそが、罪のない人を不幸に陥れる行為だったとしたら?

またも現実に目を移せば、……どうなんでしょうね。

誰もが不遇で、ストレスを感じていて、everybodyが互いの背中を掻き合っています。
慰めをゲームに求めれば依存症だと言われ、アニメに求めれば厨二病だのロリコンだと糾弾されます。酒に溺れるのも車を疾走らせるのも、自転車を疾走らせるのも、人に迷惑をかけることだって、誰かが言うでしょうね。

タバコを吸うのは、僕に言わせればパフォーマンス・ルーティンに近い感じがあります。スポーツ選手がやる、アレですね。もしもスポーツが例えば野球が、これほどビッグビジネスにならなければ、パフォーマンス・ルーティンは今ほど重要なものとは考えられず、スポーツが例えば野球がビッグビジネスにならなければ、その稼ぎがギャンブル依存症に流用されることもなかったことでしょう。

最後の例は明らかなこじつけです。
けれどこの映画とこじつけの糾弾を考え合わせれば、一つの疑問が浮かんできます。

なぜ僕ら観客は、英美を救いたいと思って、美井夫を、タバコを、憎んだのか。

誰かを救いたいと願うことが、どうして悪徳を糾弾することになるのか。

あるいは他者の悪徳を糾弾すること自体が、すでに考えの方向が歪められた結果で、ある種の依存症なのかもしれない。もしかして、他者の悪徳を糾弾することが自らの不遇を慰める手立てだってこともあるのかも。他者の悪弊によって苦しめられていると、その他者を訴えることが、実はその人自身が抱える別の問題を他者に転嫁する行為だという可能性は?

『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』という菅賀江留郎の著書があります。言いたいことは分かりますよね。また社会学者の見田宗介は、幸福のユニットと正義の範囲は分けて考えるべきだと言い、正義の範囲である大きな社会ではドライなルールが必要であると語っています。(註2)

この映画において大きな社会(つまり裁判所)は、この「ドライなルール」を守っている。いやここでは大きな社会のドライなルールは、それほど問題ではない(映画では判決の内容や正当性について詳しく語られていません)。
問題はそこではなく、見田説から振り返れば、僕ら観客が英美の幸福、解放を願い、その為に悪徳を糾弾・排除すべきと考えたこと、つまりその願いを正義と捉えたことに問題があったと考えることができます。

ならそこで本当に願われるべきだったのは?
にっちもさっちもな状況に置かれて、それでも窓を開けようと、望みをもつことの意味はなんなのか?
いったい、窓を開けなきゃならないのは、どこの誰なのか?

僕だよね。というのがとりあえずの結論で、これが④の考察でした。

この映画は、麻王監督の身近に起きた出来事を元にした、けれどフィクションとしてつくられた映画です。そして観る側の僕たちも、視点を虚構と現実に行き来させて観ることで感興が深まる映画でもあります。

本当はこの映画の素晴らしいところは、音楽と相俟った映像の美しさだと僕は思うのですが、煙福亭はそこのとこを言葉で表現できるような評論家ではないのですね。だから所詮は、感想文。

また長くなっちゃいましたが、これでお仕舞いでございます。




註1豊島区や大阪市に、そういう条例案がありました。

【喫煙を考える】豊島区、独自案取りやめのワケ 反対意見が賛成圧倒…都の条例案との違いは「通報」項目(1/2ページ)
★(下)先の東京都議会定例会で「子どもを受動喫煙から守る条例」が成立した。子どもと同室内や同乗車内での喫煙を禁じるほか、受動喫煙対策ができていない飲食店などに…
「私有地でも禁煙」条例案に反対8割…パブコメ公表、「市内全域禁止」も意見割れる
【読売新聞】 大阪市は30日、大阪・関西万博に合わせて市内全域を路上喫煙の禁止地区とする関連条例の改正に向け、8、9月に実施したパブリックコメント(意見公募)の結果を公表した。私有地や私道も禁止地区に指定できるとする規定の新設につい

註2
「幸福のユニットと正義の範囲は分けて考えるべき」という見田宗介の説は『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学』という本での、大澤真幸との対談から(36ページ)。

このすぐ後に大澤真幸が解説しているように、見田の「交響圏(幸福のユニット)」と「ルール圏(正義の範囲)」という社会学上のアイデアから生まれた提言です。

なのでこの概念を知らないとここで言ってること(特に幸福の範囲が小さくて、正義の範囲は大きい、ということ)がよく分からないかもですが、この対談で見田が「共産主義の失敗」として語っていることが解説になると思います。

このように幸福の範囲と正義の範囲を別々に考える必要がある。20世紀の社会実験で最大の失敗は共産主義ですが、共産主義自体はとても美しい論理から発生したもので、マルクスが生きていた時代はなにかしら学生間なり労働者間なりで幸せなコミューンの体験が実際にあったのでしょう。しかし、「こんな楽しいものが世界中に広がるとどんなにいいだろう」と、「コミューン」が「コミュニズム」に発展したのが間違いだった。本当はコミューンにおける楽しい関係性とは局所的なもので、数人から数十人で楽しむのがちょうどいい。150人でも多すぎるかもしれない。コミューンが大きくなりすぎると必ず失敗します。
くりかえしますが、幸福の単位は非常に小さいものである。そしてユニット間の関係はルールで決める。幸福のユニットとその相互関係としての正義を二重構造で考えることが重要です。その二つを混同してしまったのが、共産主義の失敗だったと思います。
『〈わたし〉と〈みんな〉の社会学』35ページ

もうちょっと煙福亭なりの解説を加えると、正義が幸福を保証するものではないって考えがベースにあることになります。幸福を求めるのに正義を追求したってだめってことにもなります。

映画に即して言うならば、「大きな社会」のルールであるべき「正義」を「小さな社会(団地の隣人関係)」に持ち込んだことが、小さな社会の規範である「幸福」を破壊した、という話にもなりますね。

じゃあこの映画に、ここに出てきた人間関係に正義を持ち込んだのは誰かと言うと、僕たち観客です。
この映画に正義を主張する、いわゆる禁煙団体などは出てこない。そこにも映画的な理由があるってことです。
持ち込んだのが僕ら観客だから、これについて考え、答えを出す責任があるのも僕ら観客ということになって、だから④は「考察(観客自身による)」になると僕は言う訳です。

けどここには反論があるかな、とも思うので、ちょっと蛇足を

「映画の提示するイメージから正義ってものを持ち出したのは観客だと言うけれど、それは映画の(監督の)イメージ戦略に乗せられたからじゃないのか」という反論。
つまり監督のイメージ操作によって受け取った(受け取らされた)メッセージの責任を、観客に押し付けてるだけじゃないかってことですね。

これは正しい指摘でもある。けれど責任転嫁でもあります。

もう一度、僕の言う「①イメージ→②動機(メッセージ)→③疑惑→④考察」に従ってこの映画のストーリーを要約します。

まず①のイメージとして提示されたものは「英美の健康悪化」と「喫煙の悪」です。ここから②の動機(メッセージ)=「英美を救いたい」と「喫煙を排除しなければ」が生まれる。

こう書けばわかると思いますが、これは典型的な「社会派映画」のパターンです。或いはもっと一般的に、報道番組の手法と言ってもいいですね。

ここから例えば、苦境にいる主人公(報道番組なら取材対象)に手を差し伸べてくれる人が現れる。
④の本来の形である「解決・解放」ですね。もっとも社会派映画や報道番組では通常、「解放」までには至らない。
主人公の抱える問題に希望は見えたが、最終的な解決(=解放)はまだ先にある、ということになる。
でないと「問題提起」になりませんからね。

では『[窓] MADO』だとどうか。

この映画では①がそもそも記号的なイメージとして、幻想として、つまりは嘘っぽく描かれています。美井夫の喫煙シーンがそうですが、英美が咳き込む最初のシーンにしても、あまりに典型的すぎて、なんか嘘みたいな夢のような感覚があります。

ここから生まれた②が③疑惑に受け継がれて、この疑惑は、ちょっとへんてこな江井家の「現実」を写すところから生まれる。
そして英夫の喫煙というクライマックスの後には、備井家の「現実」も映し出される。

①の「イメージ(幻想)」と③の「現実」、どっちを信じるかと言えば、普通は「現実」の方です。

勿論これだってフィクション映画に映されてる以上、イメージ=幻想には違いないのですが、
このように映画(監督)は、最初に提示したイメージ戦略に対しては、ちゃんと落とし前をつけている。
なのに僕ら観客は、「英美を救う=悪徳(煙草)を排除する」という動機(メッセージ)から逃れられない、あるいはこれを捨て去ることに躊躇する。
(まあこれは僕の考えで、普通の観客はそう観るだろうと、僕が思ってるだけなのですが)
だとしたらそれはこの映画(監督)によるイメージ操作ではなくて、映画以前に身につけた僕ら観客自身の考え方の問題となります。

なので僕は、「④解決・解放」がないこの映画には、④として「考察」=観客自身が自分の考え方、考えの筋道に対して考察を巡らすことがあるのだと言いたいわけです。

という訳で、僕はこの『[窓] MADO』という映画を「社会派映画」と呼ぶのには躊躇いがあります。

ここに描かれているのは確かに「社会問題」でもある事件なんですが、だからと言って即座に「大きな社会・ルール圏」の問題として、短絡的に「正義」の問題として考えようとするのは、この映画の内容を裏切ることになるんじゃないかと思うからです。

この映画は確かに「社会派映画」だけど、そういう「社会派映画」じゃない。
なに言ってんだか分からない言い方ですが、僕はそんな感じです。

映画 [窓]MADO 公式サイト
西村 まさ彦 主演、映画『 MADO』。 監督は麻王、長編初監督作はセンシティブな社会問題にシリアスタッチで挑む意欲作! 実際の裁判である「横浜・副流煙裁判」をもとに、化学物質過敏症が引き起こす問題をテーマにした映画です。

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