認知の歪みってなんだよ

横浜副流煙裁判の民事反訴が佳境を迎えているようですね。

証人尋問が2月に行われて、その調書が公開されています。つまり判決が近いっていうことです(通例では)。

191、【尋問調書】の公開|横浜・副流煙裁判・冤罪事件における裁判資料及び未公開記録の公開~事件をジャーナリズムの土俵にのせる~
2023年(令和5年)2月9日、横浜地裁にて証人尋問が行われた。A夫は車いすに乗っているため来れないと山田弁護士が発言を行ったが、これは嘘である。というのも、A夫が歩いている姿は尋問の数日前に私の夫も目撃しているし、また頻繁に夫婦で歩いて買い物に出かけていると、同じ階段に住む知人から銃砲が既に入っていたからである。 ...

この尋問調書が実に面白い内容ですが、まずは先に公開された被告・作田学医師の陳述書を見てみます。

169、作田学氏による陳述書~日赤との関連|横浜・副流煙裁判・冤罪事件における裁判資料及び未公開記録の公開~事件をジャーナリズムの土俵にのせる~
令和5年1月24日第5回弁論準備に向け、日本禁煙学会理事長作田学医師の下記陳述書が提出された。

ここで作田氏は、原告藤井氏らの行動に「認知の歪み」が生じていると主張しています(4ページ)。

喫煙者=ニコチン依存症で、故に認知の歪みがある、というのはTwitter嫌煙者もよく言うことで、作田氏がこう言い出すのも不思議ではないですが、認知の歪みを感じさせる「藤井氏らの行動」として作田氏が挙げるものをみれば、事実無根の言いがかりであると言わざるを得ません。

①「本件訴訟自体が、上記のとおり、藤井氏らのユーチューブやSNS等の視聴等を増やすための手段とされている」と言うのですが、原告・藤井夫妻は別件訴訟(いわゆる横浜副流煙裁判)に訴えられたことで作田や日本禁煙学会を知り、SNS等でこれを批判するに至ったのであって、時系列からその言が間違いと指摘できます。
作田氏の主張は、原因と結果を自分の都合で取り違えたに過ぎません。

②作田氏が「執拗な嫌がらせ」と言う「日赤医療センターや虎ノ門神経センターへの」原告らの行動について事実を述べると、
まず藤井夫妻は作田氏が虎ノ門神経センターに勤務したことを知りませんでした。従って虎ノ門神経センターに対する行動は存在しない。
これが事実です。
また日赤医療センターに対し行ったのは、作田の行為が医師法20条違反にあたるという地方審での判示をもっての告発であり、これを「嫌がらせ」というのはやはり作田氏の都合による言い換えと言うしかない。

むしろ藤井夫妻の訴えを「ユーチューブやSNS等の視聴等を増やすための手段」などという下品な邪推こそが、認知の歪みで言うところの「心の読み過ぎ」または「マイナス化思考」と指摘できます。


さて「認知の歪み」という言葉は、いまや本来の意味を離れて印象操作のための慣用句として使われることが多くなっています。なので「認知の歪み」とはなんなのか、確認しておきましょう。

認知の歪みとは、うつ病や不安症患者にみられる思考パターンを分析したものであり、認知行動療法の基礎となるものです。この概念には多くの研究があってその分類も様々ですが、ここでは最も有名なデビッド・D・バーンズによる分類を紹介しておきます。
(『いやな気分よさようなら』星和書店 より)

(a)全か無かの思考 all-or-nothing thinking
二分的思考 dichotomous thinking)
(b)一般化のし過ぎ overgeneralization
(c)心のフィルター mental filter
(d)マイナス化思考 disqualifying the posotive
(e)結論の飛躍 jumping to conclusions
・心の読み過ぎ mind reading
・先読みの誤り the fortune teller error
(f)拡大解釈と過小評価magnificatin and minimization
破滅化 catastrophizing)
(g)感情的決めつけ emotional reasoning
(h)「すべき」思考 should statements
(i)レッテル貼り labeling and mislabeling
(j)個人化 personalization

認知行動療法とは、これら精神的な混乱を引き起こす心の歪みをただす心理療法であって、ただし注意すべきは「認知の歪み」があることがすなわち、うつ病や不安症ではないということです。認知行動療法についての真面目な書物であれば必ず、認知の歪み自体は、多くの人が少なからず抱えているものと書かれている。

例えば、原告藤井氏らの行動に「認知の歪み」が生じているという作田氏の主張それ自体にもこれをみることが出来ますね。
彼は「喫煙者はニコチン依存症に罹患していることがほとんど」であり、依存症患者には「認知の歪みが生じる傾向が強くある」という一般論を並べてますが、これは「喫煙者の多くには認知の歪みが生じる故に、藤井らにもそれが生じている」という思考であり、率直に言えば偏見に他ならない。
彼が真実そう考えているとするならば、ここには(b)一般化のし過ぎ(i)レッテル貼り(e)結論の飛躍、という認知の歪みをみることも出来るのです。


このように「認知の歪み」の理解は、作田氏を含む被告らの、時にその意図が理解し難い主張を理解する手助けとすることができます。

例えば先の尋問で作田氏が主張した「原告藤井敦子は喫煙者である」という発言ですね(作田本人調書 8〜10ページ)。

「原告藤井敦子は喫煙者である」という主張は、その根拠がそもそも作り話です。
これは作田氏のつくったお話と、当時の記録を照らし合わせれば、すぐに分かることですが、
それ以上に「原告藤井敦子は喫煙者である」か否かは本件審議になんら関係がない。

仮に藤井敦子が喫煙者であったとしても、被告らがなんら根拠なく藤井将登を加害者と指弾し、提訴した事実には変わりがないからですね。
ここが問題です。

普通に考えるならば、医師という知的職業にある作田氏がこんな無意味な主張を、まして作り話をもって行うなど考え難いことです。ただし作田が「喫煙者であること」に特別な意味を見出していて、それ故に認知の歪みが生じてしまっていたと仮定してみれば、その意図を理解することが出来るのです。
つまり「藤井敦子が喫煙者であり原告の二人がそろって喫煙者であるならば、彼らは悪人であり被害者であり得ず、すなわち彼らの提訴は不当訴訟であり、自分に罪はない」という意図です。
もちろんこのような論理が成立するためには「喫煙者=悪」という前提が必要であって、このような差別的な等式は現実には存在しない。

ならば作田氏による「原告藤井敦子は喫煙者である」という不可思議な主張には、(a)善か悪かの二分的思考(i)レッテル貼り(e)結論の飛躍、という認知の歪みが指摘できるのです。

このように認知の歪みによる影響を想定しなければ理解し難い主張が、被告ら(作田氏およびA家)には散見される。しかし被告らに認知の歪みが生じているからと言って、これをもって被告らに不法行為があるということではありません。ただし認知の歪みから生じた考えと主張によって藤井家が被害を受けたことは明瞭である、とは言います。

そもそもA家が「藤井将登からの受動喫煙によって健康被害にあった」と主張する主要な根拠であった作田医師による診断書、ここに書かれた「団地一階からのタバコ煙」「団地一階にミュージシャンがいて」と加害者を決めつけた文面の根拠を、作田氏は尋問において「よくあることだから」と述べています(本人調書16ページ)。

ここには一般的事象と個別的事象を混同する「(b)一般化のし過ぎ」があると見做さざるを得ない。
そもそも特定の患者についての所見が書かれるべき診断書において一般的な事柄が記されたことが問題であって、
この過度な一般化(団地一階に住むミュージシャンによって受動喫煙被害を受けるのはよくあることだから、A家の受動喫煙の原因も同じであるという思考)によって、原告藤井将登は加害者と指弾されるに至ったのです。

また横浜副流煙裁判で判示されたように、A家の主張は「いささか無理がある」「前提を欠くというほかなく」(控訴審)「その主張自体不自然である」(地方審)といった、客観的根拠に欠けたものでした。
ここには「(g)感情的決めつけ」すなわち「こう感じるんだから、それは本当のことだ」という典型的な認知の歪みがみられる。

こうした不当かつ正体不明な主張に対し、藤井氏は2年11ヶ月に及ぶ別件訴訟で、また居住する団地の管理組合に対し、一々これに反論する責務を負わされ、経済的・時間的・精神的負担を強いられたのです。

繰り返しますが、作田氏やA家族に認知の歪みが生じていることが彼らの不法行為の根拠ではない。また認知の歪みがあると言って、被告らを精神疾患と言うのではありません。認知の歪みはほとんどの人に、少なからず生じるものだからです。

そしてはっきり言って、彼らの主張に認知の歪みが影響しているというのは、その行為を最大限善意に解釈した場合に限られる。普通に考えれば彼らの主張は、藤井氏らを陥れるためにつくられた悪意ある言説と考える方が、よっぽど自然だからです。


さてしかし、「喫煙者=認知の歪み」というのは、今じゃ多くの嫌煙さん達が言うところになってます。が、これは「喫煙者のほとんどはニコチン依存症である」「依存症者の多くには認知の歪みがある」というのを短絡的につなげたものですね。

ここに(b)一般化のし過ぎ(i)レッテル貼り、といった認知の歪みが作用していることは明らかですが、面白いことに、「ニコチン依存の判断」自体にも認知の歪みが作用している場合があるのです。

加濃式社会的ニコチン依存度調査票(KTSND)、というものがあります。

「社会的ニコチン依存」とは「喫煙を美化、正当化し、文化性を持つ嗜好として社会に根付いた行為と認知する心理状態」を言うものだそうで、その性質上、非喫煙者でも社会的ニコチン依存というものがあり得る。つまり非喫煙者にも同じ調査ができるのです。

質問事項は以下の10項目で、選択肢は[思わない][あまり思わない][少しそう思う][そう思う]、左から0,1,2,3点の配点(問1のみ逆配点)の30点満点で、9点以下が基準範囲となります。

加濃式社会的ニコチン依存度調査票(KTSND)
http://tobaccobyo.life.coocan.jp/KTSND.html
(1)タバコを吸うこと自体が病気である
(2)喫煙には文化がある
(3)タバコは嗜好品(味や刺激を楽しむ品)である
(4)喫煙する生活様式も尊重されてよい
(5)喫煙によって人生が豊かになる人もいる
(6)タバコには効用(からだや精神に良い作用)がある
(7)タバコにはストレスを解消する作用がある
(8)タバコは喫煙者の頭の働きを高める
(9)医者はタバコの害を騒ぎすぎる。
(10)灰皿が置かれている場所は、喫煙できる場所である

偏向してるなぁ、と思うのは僕だけでしょうか。
「喫煙には文化がある」「喫煙する生活様式も尊重されてよい」と考えることが「社会的ニコチン依存」と呼ばれてしまうのです。

多分、歌舞伎好きなら全員アウトです。「歌舞伎は好きだけど『助六』はキセルの雨が降るから歌舞伎じゃない」という偏狭な人ぐらいしかこれを逃れることが出来ません。あとは「ゴッホは優れた芸術家だが、パイプを咥えた自画像は芸術ではない」という人もセーフですね。さらに(10)の「灰皿が置かれている場所は、喫煙できる場所である」と思ってしまったらアウト、という質問もなかなかに可笑しい。

こうなっちゃうのはそもそも「社会的ニコチン依存」の概念自体に、《(a)二分的思考》と《(h)「すべき」思考》すなわち「タバコは社会的にも悪であると考えなければならない」と他者に強制する(「すべき」と考える)思考があるからです。
Twitterをみてると極端なMyルールをマナーとして喫煙者に強要する人がいますけど、あれと同じですね。

ただそうした主観的な判断に頼らなくても、KTSNDを用いてこれをニコチン依存度の指標になると考えることに「認知の歪み」があるとは、客観的に指摘することが出来ます。

KTSND(加濃式社会的ニコチン依存度調査票)は9点以下を基準範囲としています。つまり10点以上は「社会的ニコチン依存度が高い=依存症」と評されるのですが、実際にこの調査を行った結果では、9点以下であることの方が稀なのです。

実際の調査例をあげますね。https://www.jstage.jst.go.jp/article/juoeh/28/1/28_KJ00004291026/_article/-char/ja/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/haigan/50/3/50_3_272/_article/-char/ja/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/haigan/50/3/50_3_272/_pdf/-char/ja
https://www.kobegakuin.ac.jp/files/facility/org/journal/edc_journal/edc_journal-08_04.pdf
http://www.nosmoke55.jp/gakkaisi/201112b/111228_98.pdf

ここに挙げた調査結果をみれば一目瞭然ですが、笑ってしまうのは、日本肺癌学会総会参加者(!)のうちで「非喫煙者」の平均が「10.5」最も禁煙意識が高いとされる群の平均すらが「10.3」であって、「基準範囲より高い(=依存度が高い)」と見做されてしまうのです。

「認知の歪み」とは、その思考的枠組み(スキーム)によって現実とずれた現実認識をもってしまうことを言います。つまりKTSNDは、現実に適用してみればほとんどの人、ニコチン依存とは無縁に思われる人すらが「依存度が高い」とされてしまうことをもって、「認知の歪みがある」と言わざるを得ないのです。

そしてやっぱり、作田学を理事長とする日本禁煙学会は、このKTSNDを支持しているようなのですね。

http://www.nosmoke55.jp/gakkaisi/201212/gakkaisi_121227_145.pdf
http://www.nosmoke55.jp/gakkaisi/201112b/111228_98.pdf



注1 依存症における認知の歪みについて

依存症における「認知の歪み」は、上にあげたものとはやや違ってきます。依存症患者における認知の歪みは「自己正当化」が主になってくるので、自罰・他罰傾向のあるうつ病患者の認知の歪みとは、ベクトルが少し異なってしまうからです。
上に述べた「この概念には多くの研究があってその分類も様々」とはこのことでもあるのですが、ただ「自己正当化」という認知の歪みもまた、作田氏の言動を説明するのにぴったりとも言えますね。

別件訴訟(いわゆる横浜副流煙裁判)の甲81号証において、自らの医師法20条違反を正当化するためにダイヤモンドプリンス号の件を引合いにした「このような極限状態においては、医師法も超越されると理解いたしました」という詭弁を思い起こします。

また児童虐待者のもつ認知の歪みについては「被害的認知」という言葉も使われます。虐待する親が内心では「子供から被害を受けている」と感じている、という意味ですが、これなどは藤井家を加害者にこじつけるA家に当てはまるとしても不自然ではない気がします。

甲81号証
https://note.com/atsukofujii/n/nb311a81ff132


注2 ニコチン依存症の診断基準について

加濃式社会的ニコチン依存度調査票(KTSND)というかなりトンガったものを挙げてしまいましたが、今現在、禁煙治療の保険診療で使われてる(厚労省公認)ニコチン依存度テストは「TDS(Tobacco Dependence Screener)」です。その以前から使われていたのが「FTND(Fagerstrome Test for Nicotine Dependence)」。後者は喫煙の生理学的な依存に対し用いられ、TDSは精神医学的立場から薬物依存としての診断に用いられる、ですね。

TDS
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/tobacco/yt-048.html
FTND
https://www.health-net.or.jp/tobacco_archive/risk/rs210000.html

現在TDSが認められているのは、これがICD−10、つまりWHOの依存症診断基準との相関が高いという結果が出ているからですが、僕としてはちょっと「ホントかな?」と考えています。ICD−10の依存症診断基準がこれなんですが、aの「強迫感」bの「摂取行動を統制することが困難」cの「生理学的離脱状態」dの「耐性の証拠」eの全体、fもそうで、肺炎になったり肺がんで苦しんでる時に、それでもタバコを吸う人って、そんなにいるかな? と思います。というか、この基準とTDS質問項目の表現には差があり過ぎないか?ということですね。

それでもやってみました個人的な報告を致しますと、

煙福亭の調査結果は
①TDS :10点満点中4点(5点以上がニコチン依存症)
②FTND :10点満点中5点(6点以上がニコチン依存症)
③KTSND:30点満点中26点(10点以上が社会的ニコチン依存症)
でした。

さて僕はKTSND=加濃式社会的ニコチン依存度調査に認知の歪みをみると言いましたが、調査結果ではなく「社会的に」みれば、彼らのスキームの方が正常であるのかも知れません。「WHOが喫煙自体を精神疾患だとしている」と考えるなら、ですね。
ただ僕の考えではこれも拡大解釈です。「喫煙自体が精神疾患」という考えに従うなら、酒を呑むこともカフェインを摂ることも、睡眠薬を飲むこと「自体」も精神疾患だという理屈になるからです。

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とは言え僕もテドロス事務局長のご意向までは知りませんから、WHOはもしかしたら、「喫煙自体が精神疾患」と考えてるかも知れませんね。

だとしても僕は特には驚きません。

だってWHOは、ちょっと前(1990年)まで「同性愛」を精神疾患だと規定してたとこですから。
「WHOがICDの精神疾患に分類名を載せている」のはつまり、時流だってことです。
そもそも統計や科学そのものには、すべての人の生き方を規定できるという権限はありません。みんなが科学にそれを許すなら、僕らは近いうちにAIの指示するところを教義として受け入れる羽目になっちゃうでしょうね。

認知の歪み(cognitive distortion)だから、ディストーションギターだってことですよ。発想の貧困さが光ります。

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