横浜副流煙裁判での化学物質過敏症

『[窓] MADO』という化学物質過敏症をテーマにした映画が公開されるそうです。

映画 [窓] MADO 制作支援プロジェクト
西村 まさ彦 主演、映画『 MADO』の制作支援プロジェクトです。 監督は麻王、長編初監督作はセンシティブな社会問題にシリアスタッチで挑む意欲作! 実際の裁判である「横浜・副流煙裁判」をもとに、化学物質過敏症が引き起こす問題をテーマにした映画を制作中です。

今クラファンで資金を集めてますが撮影自体は終わっているようで、12月に上映と予告されています。

横浜副流煙裁判という現実にあったことを基に、しかしフィクションとして創られた映画だそうです。
横浜副流煙裁判についてあれこれ書いてきた煙福亭にとってこれが新鮮なのは、原告サイド(タバコ煙による健康被害を主張する側)を主人公として描かれるということで、しかも監督・脚本の麻王さんは、被告であった藤井将登氏の息子なんですね。一筋縄では行かない映画になりそうです。

いわゆる横浜副流煙裁判とは
平成29(2017)年11月、団地の2階に住むA家族(70代夫婦と40代の娘)が、斜め下の部屋に住む住人のタバコ煙によって健康を害したと民事訴訟を起こし、4500万円超の賠償金と住居での禁煙を求めたものです。
ただし被告とされた将登氏の喫煙は、ベランダなどではなく閉め切った防音室でのものでした(1%だけは換気扇の下で、と言います)。また将登氏が一時禁煙をした時や外出していた時間にも煙が流入してきたというA家族の証言から、自分の喫煙とは無関係であると争いました。裁判途上ではA夫に過去の喫煙歴があったことも明らかになります。

ここで最初に証拠として出されたのは、平成29(2017)年4月12および19日に作田学医師が書いた原告A夫・A妻・A娘、3人の診断書で、これが原告の出す証拠「甲号証」の1〜3号証でした。
ここでの病名は、こう。

A夫=受動喫煙症レベルⅢ、咳、痰、咽頭炎
A妻=化学物質過敏症、受動喫煙症レベルⅣ
A娘=受動喫煙症レベルⅣ、化学物質過敏症

ただしA娘の診断書は、作田医師が直接に診察せず書いたもので、彼女の「化学物質過敏症」は、実質的には宮田幹夫医師による同年3月8日の診断です。
化学物質過敏症の権威とされる宮田医師は問診・質問票に加えて3種の神経生理学的検査を行いましたが、作田医師がA妻を化学物質過敏症と診断した根拠を僕は知りません。

果たして横浜地裁による一審判決では、これら医師の診断した「受動喫煙症」「化学物質過敏症」それぞれについて検討した上で、双方の証拠能力を同じ言葉で否定しています。

原告に受動喫煙があったか否か、あるいは、仮に受動喫煙があったとしても、原告らの健康影響との間に相当因果関係が認められるか否かは、その診断の存在のみによって、認定することはできないと言わざるを得ない

一審判決は棄却。すなわち原告A家族からすれば敗訴で、その後控訴されましたが同じ結果に終わっています。

さてでは「化学物質過敏症とはなにか?」ですが、煙福亭にはよく分かりません。
けれど分からなくても恥ずかしくはない。と言うのは、個々の見解としてではなく、広く一般に認められる「化学物質過敏症の定義」というものはまだ確立していないからです。

それでも基本的には、1987年にCullenさんが提唱したところを一般的な定義とみなしてよいでしょう。

過去に大量の化学物質に一度に曝露された後、または長期間慢性的に化学物質の暴露を受けた後、非常に微量の化学物質に再接触した後に見られる不快な臨床症状

なるほどと思います。
不思議ではあるけれど、別に分からないことはないのでは? と。

特徴としては再現性で、症状再現の際の曝露量が「非常に微量」であっても症状が起こるということ、そしてここには書かれてないですが、病因と考えられる化学物質とはまったく異なる化学物質に曝露しても(それが非常に微量であっても)同じ症状が起こる、というところです。
そうすると分からなくなる、というのはこういうことです。

曝露量や用量-反応関係を基盤とした中毒学の考え方で、化学物質過敏症の機序を論理的に説明することはできない。
誘発試験においても,化学物質過敏症患者は,異なった化学物質に対し異なった反応性を示さないこと、そして、プラセボを用いた曝露試験でも重度の反応が認められることから、化学物質の生物学的な性質が化学物質過敏症を引き起こしているとは考えにくい。
(加藤貴彦2018)

つまり化学物質過敏症とは化学物質により引き起こされる症候群であるのに、その化学物質の毒性と、反応の様態や症状の重度が一致しない。患者の症状と化学物質の毒性とのあいだに関連性がない。ということ。それなのに病因となるのは化学物質であると言うのです。分からないですよね?

実際、化学物質過敏症の機序(発症メカニズム)についてはほんと色々な諸説があって、今のところ決着がついていません。
免疫学的機序、神経学的機序、心因性機序、といったものから「高感受性集団の存在(遺伝要因)」や「生体総負荷限界説」などなど。その機序についての見解の違いから化学物質過敏症の定義もまた違ってくるので、最も一般的なMultiple Chemical Sensitivity(MCS多種化学物質過敏症)からChemical Intolerance(化学物質不寛容状態)、Idiopathic Environmental Intolerances(IEI本態勢環境不寛容状態)など名称もそれぞれで、日本では石川哲が1999年に診断基準を定めた「化学物質過敏症(Chemical Sencitivity:CS)」が一般的になってるのです。

さてしかし、煙福亭は「化学物質過敏症というものはない」とは考えていません。
いま生活圏に広がり続けている様々な人工化合物が人体になんの悪影響も及ぼさない方が不自然だと思っていますし、「医師としての自分の主観を押しつけるのではなく、患者の苦痛をどのくらい共感をもって真面目に考え、治療するかにかかっている(宮田幹夫)」という言葉、虚心坦懐に患者と未知の病とに向き合う姿勢は素晴らしい、と思ってしまいます。

それでもなお「化学物質過敏症は分からない」というのは、石川哲や宮田幹夫が「化学物質過敏症は心因性ではない」と主張することです。
心因性という機序を排するということは、より厳密に化学物質過敏症を定義しているようにも思えるのですが、彼らの主張を見てみると、どうもそうではないからです。

石川・宮田と柳沢幸雄の共著である『化学物質過敏症(文春新書2002)』には、5人家族全員が化学物質過敏症という一家を取材したなかで、こんな記述が出てきます。

インタビューをしているとき、近くにいた次男の茂弘くんが突然、鼻血を出してしまった。昌子さん(母)が「どうしたん?」と聞くと、茂弘くんは「分からへん」と答える。すかさず紘司くん(長男)が「タバコやと思う。さっきから喉がヒリヒリしてたから」と指摘した。
もちろん、われわれはタバコを吸っていたわけではない。その日は朝から喫煙を控え、整髪料もつけずに入江さん宅を訪問した。おそらく、入江さん宅へ向かう途中、新幹線の車内で他の人の吸うタバコの煙が服に染みついたに違いない(77ページ)

これがおかしいのは茂弘くんの鼻血の原因を、当人が「分からない」と言っているのにかかわらず別の人間の「タバコやと思う」を真実として採用し、そこからまったくの他人(著者)が類推しただけの三次喫煙を「違いない」と断定してしまうことです。
また茂弘くんの兄である紘司くんの理由も「喉がヒリヒリしてたから」であって、紘司くんは「タバコにはとくに敏感」ではあっても発症原因は様々で、そもそもの病因と考えられているのはタバコではなくホルムアルデヒドです。

つまりここでは化学物質過敏症は心因性ではない、ということが「化学物質過敏症の患者が言うことはすべて(原因も含めて)客観的かつ医学的な事実である」とされてしまっているのです。

化学物質過敏症の診断が問診を重視するというのは現状その通りなのですが、患者の訴えを虚心坦懐に聞くということと、患者の言うこと(感じたことや推測)がそのまま事実であると認めることはおのずから別のことで、後者は医師としてまた科学者として正しい態度だとは思えません。
それどころか「患者の言うことはすべて医学的事実である」という認識を、医師と患者の間だけでなく社会一般に強要していったら、社会そのものが歪んでいってしまうでしょう。

「化学物質過敏症」の被害者が、患者だけではなくなる。

それが横浜副流煙裁判で起こったことです。

さてただし、先の引用は環境学者である柳沢幸雄と木村元紀(著者名にはない)が書いた第1章からのもので、石川哲・宮田幹夫両医師が書いた部分ではない。また両医師が今現在も「化学物質過敏症は心因性ではない」という主張を堅持しているのかどうか、僕は知りません。けれど横浜副流煙裁判において宮田幹夫医師が、上記以上の変てこな主張をしているのは事実です。

横浜副流煙裁判は「団地斜め下の部屋からのタバコ煙により化学物質過敏症・受動喫煙症にされた」という訴えであり、病因は受動喫煙であると、原告A家族は特定しています。
ただし宮田医師の化学物質過敏症診断書には「受動喫煙が原因」などと書かれてはいません。

化学物質過敏症 微量な化学物質、特に空気汚染化された物質に過敏に反応して体調不良となる疾患であり、関係者の配慮が望まれる。

なのに宮田医師が裁判に提出した意見書(回答書)では、タバコが原因であると断定されているのです。

タバコ臭から始まっているという患者の問診が一番重要だと思います。(略)タバコが元凶です。タバコの有害性については申し上げるまでもないと思います。
甲79号証2ページ

ぜひとも皆さんには資料の全体を読んでほしいのですが、「一番重要」どころか「タバコが元凶」という根拠は患者の問診=自己申告以外にありません。それを踏まえて読むと、上の言葉はこういう意味になります。
「タバコが元凶です。なぜなら患者がそう言っているし、何よりタバコというのは、悪いものだからです」
なんかもうマンガ的な冤罪の証言です。
「犯罪現場の近くに前科者が住んでいた。悪者なんだからソイツが犯人だ」と言っているのと変わりません。
医師が裁判書面で主張する言葉が、こんなんでいいのかと思うのです。

宮田医師がA娘の化学物質過敏症の原因がタバコである、と最初に言明した文章を見てみましょう。

このような異常が明瞭に証明されていることは、患者の訴えが精神的な思い込みとか、過剰反応だけではなく、本当に異常が引き起こされてしまっていることを示しています。タバコの煙という有害物質で本患者の中枢神経の異常を生じてしまったのです。
甲27号証8ページ

この直前にあるのは宮田医師がA娘に行った検査の説明で、これらの検査は原因物質を特定できるものではありません。実際この直後には「このような検査所見の異常は有機リン殺虫剤、シンナー、アルコールなどの微量慢性中毒でも検出されています」と続くのです。しかしまたその直後に「タバコの煙は本当に危険なのです」と続けて文章が終わる。
流し読みすればここは「検査で分かる通りタバコが原因であって、つまりタバコはシンナーくらい危険なものなんだ」と読めてしまう。けれどこれがA娘の化学物質過敏症についての説明であることをキチンと踏まえて読めば、こういう意味です。
「検査内容からは分かりませんが、タバコの煙という有害物質が原因です。A娘の症状はタバコの煙以外、シンナーやアルコールを原因としても起こるものですが、何はともあれ、とにかくタバコは危険です」

……なんだか宮田医師をバカにしているみたいですが、僕が彼の言葉を論ってるのはバカにするためじゃなくて、論理が破綻しているのを示すためです。
医師とはこの国で医業を独占することを国家(厚生労働大臣)によって保証された、紛れもない権威です。診断書を発行できるのは医師だけであり、医師だからこそ裁判に意見書を求められるのです。
その医師が裁判書面で主張する言葉がこんなに非論理的でいいのか、ということです。

もうひとつ、甲79号証から(4ページ)

(弁護士からの質問)
化学物質過敏症を発症した後は、階下の副流煙がわずかな場合でも、症状が発生することがあり得るとのことです。これに対し被控訴人(藤井将登氏のこと)は、「一本も吸わない日でも、A娘らが感じるとすれば、それはA娘の被害妄想である」と主張しています。これらの感じ方を被害妄想と言えるのか、言うべきなのでしょうか。先生のご見解を賜りたく。
(宮田医師の回答)
ヒトは馬鹿ではありません。記憶の動物です。一旦嫌な思いをしたところへ喜んでいく人はいません。この喫煙者の顔を見ただけで当然嫌悪感、頭痛、息苦しさなど出てくるものなのです。昔からアレルギーの例によく挙げられている話を記しておきます。
「ばらの花粉で喘息発作をいつも起こしていた患者さんが、造花のバラの花を見ても喘息発作を起こしてしまった」

いわゆるバラ喘息というのは、発作の心因性を説明するのに使われる有名な話です。
ここでバラ喘息を引き合いに出すことはA娘の症状発生もまた心因性であるという主張になってしまいますし、「喫煙者の顔を見ただけで」というのも、その強調にしかなりません。

敢えて宮田医師を弁護するならば、ここで彼は「喫煙者の顔を見ただけで症状が起こるなら、そもそもの病因がタバコなのだ」と言いたいのかも知れません。
しかし造花のバラを見て喘息発作を起こす人の、喘息そのものの原因がバラ花粉だとは言えない。かつ化学物質過敏症もまた、病因となる化学物質以外に曝露しても同じ症状が出るものなのです。
これを理解し質問の意を解した上で宮田医師の回答を読むならば「A娘は将登氏が喫煙していると思い込んだだけで症状が発生する」と、将登氏の喫煙については被害妄想であることを肯定した言となるのです。

実は化学物質過敏症の原因物質を特定しようとする検査方法は、一応存在します。

負荷(チャレンジ)試験、或いはブーステストと呼ばれるもので、つまりは患者を特定の、かつごく微量の化学物質に晒し、反応があるか否かをテストするものです。
ただしこの試験を行うことで患者の病状を悪化させることが多く、最近では行われていないそうです。
そしてもう一つ、化学物質過敏症の負荷試験には問題があると指摘されています。
『化学物質過敏症BOOKLET』という本に、宮田幹夫が書いてるのです。

化学物質過敏症になってしまうと、いろいろな化学物質に過敏反応を示すために、負荷した化学物質が原因であると決めきれないことがあります。

反応を示した化学物質が病因なのか、化学物質過敏症に罹った結果、その化学物質に反応するようになったのかの判別はできないという、実に真っ当な指摘です。またあらゆる化学物質で負荷試験が行えるわけでもなく、さらには上にあげたように「プラセボを用いた曝露試験でも重度の反応が認められる」実験結果も出ているのです。
ここから類推すれば、患者の自己申告で原因物質を決めてしまうことの問題点を少なくとも二つあげることができます(プラセボ=ノセボ効果や患者が嘘をついてる場合を除いて)。

  • 患者の知識にない化学物質が真の原因だった場合、その原因物質が医師にも理解されない
  • 医師の知識にない(或いは現在のところ化学物質過敏症の原因と認識されていない)化学物質が真の原因だった場合、以下略

負荷試験の問題点を指摘できる医師が自己申告による原因物質特定の危険性を理解できない筈はない、と思うのですが、実際の宮田医師の発言は(裁判書面ですら)こんなんなのです。

化学物質過敏症は心因性ではない」と医師が主張することは啓蒙的には、つまり化学物質過敏症が「気のせいではなく深刻な病気なんだ」と社会に周知するのには、有効なことでしょう。ですがこれを頑なに押し進めるならば、こんなにおかしな主張をするに至ってしまいます。

また一方では「患者の言うことがすべて医学的事実である」と知らされた患者自身が「自分の感じることがすべて医学的事実である」と考えるようになり、「医学的事実に基づいて、自分が脅威と感じる化学物質は排除されなければならない」と周囲に訴えることにもなる。

こうなってしまうと「化学物質過敏症」の被害者は患者だけではなく、患者から「加害者」と決めつけられた者もまた「化学物質過敏症の被害者」になってしまうということです。

これが横浜副流煙裁判であり、また今後も起こり得る事態だと僕は考えているのですが、さて映画の方は、これを化学物質過敏症の患者、つまりA家族の側から描くものだそうです。

そして「事実を基にしたフィクションドラマ」であり、監督は裁判に提出されたA夫の日記から「家族の愛、というものが見えてきました」と語っています。
煙福亭は家族の愛というものが感動的なだけのものじゃないと思ってますし、フィクションだからこそ描ける横浜副流煙裁判の見方というものもあると考えます。
普通に「家族って素晴らしい」とか「患者さん可哀想」って映画ではないんじゃないかな、と楽しみにしているのです。

映画 [窓] MADO 制作支援プロジェクト
西村 まさ彦 主演、映画『 MADO』の制作支援プロジェクトです。 監督は麻王、長編初監督作はセンシティブな社会問題にシリアスタッチで挑む意欲作! 実際の裁判である「横浜・副流煙裁判」をもとに、化学物質過敏症が引き起こす問題をテーマにした映画を制作中です。



化学物質過敏症についての資料をいくつかあげておきます

●一般的で短いもの(坂部貢2016)
https://www.env.go.jp/content/900406393.pdf

●諸説あることが分かりやすいもの(加藤貴彦2018)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjh/73/1/73_1/_pdf

●かなり長いけど研究史や法規制、裁判なんかにも詳しいもの(公害等調整委員会事務局2008)
https://www.soumu.go.jp/main_content/000142629.pdf

横浜副流煙裁判については、黒薮哲哉による著書があります。

●『禁煙ファシズム』2022

●手前味噌ながら煙福亭が控訴審前に書いたもの

●判決文
https://atsukofujii.com/%ef%bc%91%e3%83%bb%ef%bc%92%e5%af%a9%e5%88%a4%e6%b1%ba%e6%96%87/

●宮田幹夫医師による診断書と意見書(回答書)
診断書
https://note.com/atsukofujii/n/n902d258651ce
甲27号証
https://note.com/atsukofujii/n/n42c3f5a746a2
甲41号証
https://note.com/atsukofujii/n/n46db18bed75a
甲79号証
https://note.com/atsukofujii/n/n4d49bc226bc3

●被告とされた藤井将登氏側が、主に化学物質過敏症に対してどう争ったのかが分かりやすい、被告準備書面(8)特に8〜15ページ
http://atsukofujii.lolitapunk.jp/%E6%BA%96%E5%82%99%E6%9B%B8%E9%9D%A2%EF%BC%88%EF%BC%98%EF%BC%89%E5%90%8D%E5%89%8D%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E7%89%88.pdf

●藤井将登氏と彼の妻である敦子氏は、A家族と作田学医師を相手どって反訴を行っています

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