嫌煙権は正しい

 さてもう一段、冷静になってみましょう。
 そもそも嫌煙権にも歴史があります。
 歴史を紐解くほどの準備は私にございませんので、卑近な話でお茶を濁しましょう。
 僕の妹の話です。中学二年くらいになってでしょうか、父親に対して「車の中でタバコ吸わないで」と言ったのです。
 彼女はその日たまたま「タバコ嫌だな」と思ったから、そう口にしたんじゃないでしょう。前々から「タバコ嫌だな」と思い続けていて、その日になってやっと父親にそれを主張できたんだと考えるのが普通です。
 今、タバコが嫌いって人達のなかで、まあ40代以上の人であればおそらく多分、同じような忍耐の日々の末に嫌煙権を主張する自由を得たんじゃあないでしょうか。それまで僕たち喫煙者は、そういう非喫煙者のガマンの上で、スパスパ煙草を吸っていた。その事は認識しておかなきゃね、と思うのです。

 この妹の話を、彼女の子供たちである甥っ子姪っ子にした時に「なんでそれまで言えなかったの?」と訊かれた僕は、「大人は偉い、男が偉い、っていう風潮がまだその頃にはあったからかな」と答えました。隣で父親は憮然として話を聞いていましたが、その父親は娘に「タバコやめて」と言われたその時に「ああ悪い」とか言って、すぐに煙草を消してました。
 まあそんくらいの時代であって、そんくらいの親子関係だったんですね。

 そういう時代だった、ていうのはそこそこ正しい認識だと思うんですが、妹がその中学二年に至るまで「タバコやめて」の主張が出来なかったのは、「偉いお父さんに対して文句を言うのは怖い」っていうだけでもなかったでしょう。人が当然のようにやっている行為に対して「不愉快だからやめて」と言うのは、良心に照らして勇気のいることです。その「不愉快」の言葉が相手を傷つけてしまうことにもなるからです。だから妹は自分にその力が、勇気が育つまでそれを言えなかった。またそれで親子の関係が壊れるものではないという信頼関係が育つまで、それを言えなかった。そういうことでもあるのかな、と考えます。
 そんな力、勇気、信頼を、中学生の自分のなかに育てた妹を、尊敬します。

 さてじゃあこの現在、親のタバコに嫌な思いをしている子供を見たら、僕は簡単にこう言ってしまうでしょう。
「嫌なら嫌って言っていいんだよ。嫌煙権ってものがあるんだから」

 嫌煙権っていいものですね。そう言って簡単に子どもを嫌な環境から救うことができます(いや実際はケースバイケースだな)。
 ただもうちょっと深く、慎重に、一服してから考えてみると、それが本当にいいことなのかな、とも思ってしまいます。

 いまさっき言いました。妹は何年かのガマンに耐えて、その間に自分の力や勇気を育み、それをもって父親に主張することができたのです。それに対して、既に世の中で認められてしまっている「嫌煙権」というものを無力な子どもに与えるのは、いい事だけではないかもな、ということです。
 妹の自助努力に比べると、これは力のない子どもに飛び道具を与えてやるような事じゃないのか、という反省があるのです。
 拳銃を手にしたら、多分僕でもK -1ファイターと戦うことが出来ます。けどそれで僕が勝ったとして、誇らしげに勝利を宣言したとしたら、かなーりお寒いかんじになるでしょう。子供たちのなかに誇りを育む、という観点からは、安易な飛び道具(嫌煙権、とか諸々の権利)を与えるのも考えものかも知れないなあ、と思ってしまうのです。


 どっちがいいのやら。まあケースバイケースなんでしょうねえ。

ビースティー・ボーイズの1stアルバム(1986)。
「You Gotta Fight For Your Right」なので選びました。アナログではダブル・ジャケットで、開くと上の絵がみえるんですね。タバコを灰皿に押しつけているようにも見えますし、なんか禁煙運動のポスターみたいな絵柄にも見えませんか?
 この人達みたいなフザけた感覚ってのは、アメリカのポップスに今、生きてるんでしょうか。

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